ベトナムの首都がハノイである理由をわかりやすく解説!ホーチミンとの関係性とは

ハノイの情報
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みなさん、しんちゃお!

政治・文化の中心地である首都ハノイと経済の中心地であるホーチミンは、ベトナムの2大観光地ですが、みなさんはなぜ首都がハノイなのかご存じでしょうか。今回は、なぜハノイが首都になったのか、ハノイとホーチミンはどのような関係性なのかを解説していきます。

首都ハノイ

行政区画

行政区画

日本では単にハノイと呼ばれることが多いですが、行政単位的にはハノイ市になります。ハノイ市はホーチミン市、ダナン市などと同じ5大政府直轄都市(政府の管轄を直接受ける都市)の一つで、日本でいうところの都道府県の扱いになります。

現在では12区、17県、1市で構成されており、800万人以上の人々が暮らしています。ちなみに、人口第1位のホーチミン市は約900万人で、第3位のダナン市は約100万人です。このことからも、ハノイ市とホーチミン市がベトナムを支えている2大都市であることがわかります。

ハノイの歴史

唐による支配~独立

唐による支配

ハノイの歴史は7世紀頃までさかのぼります。中国が唐の時代に、雲南と南シナ海を結ぶ交易路上にあったことから、安南都護府がハノイに置かれ、唐の南方支配の拠点になりました。唐末には、拠点としての重要性は低下しましたが、11世紀に李朝がタンロン(現:ハノイ)に都をおき、農業地帯統治の拠点としました。ここから、1802年に阮朝がフエに遷都するまで都として繁栄していきました。ハノイという名前が使われるようになったのは、1831年のことです。

フランス占領下

フランス占領下

1873年にはフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地となり、1940年頃には日本の占領下に置かれることもありましたが、第2次世界大戦の終結で日本の占領はおわり、1945年9月2日にハノイで当時の大統領であるホーチミン氏がベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立を宣言しました。9月11日に採択されたベトナム民主共和国の最初の憲法では、ハノイがベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都であることが明文化されました。

フランス・アメリカからの解放

フランス・アメリカからの解放

その後、ホーチミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)とフランスが後ろ盾となったコーチシナ共和国(南ベトナム)による第1次インドシナ戦争(1946年~1954年)が始まることになります。この戦争に敗北したフランスは撤退していきましたが、ベトナムの共産化を阻止するという名目でアメリカが南ベトナムを支援し始めました。

ここから、北ベトナム軍と南ベトナム・アメリカ連合軍の戦争(ベトナム戦争/第2次インドシナ戦争、1965年~1975年)が始まります。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の善戦やアメリカ国内外からの批判によりベトナム戦争は南ベトナム・アメリカ連合軍の敗北という形で終末を迎えることになります(1975年4月30日)。

ベトナム戦争終結後の南北ベトナムの統一(1976年)に伴い、戦争に勝利したベトナム民主共和国(北ベトナム)の首都であったハノイがベトナム社会主義共和国の首都となり、現在に至ります。

ハノイが首都になった理由

ハノイが首都になった理由

歴史のパートでベトナムの歴史について触れましたので、なんとなくわかっている方もいらっしゃると思いますが、ハノイが首都である最大の理由は、南ベトナムとの戦争に勝ったからです。

日本の歴史で見てもわかるように、戦いで勝った方の中心地がその後の都(首都)としての機能を担っていくことが多いです。元は唐の時代に交易路の途中にあったことから始まったハノイですが、それ以降も様々な王朝の中心地としての役割を担ってきましたので、首都としての役割を果たすにはうってつけの場所であったように思います。

一方、敗戦した側の首都であったホーチミン(サイゴン)ですが、もともとメコンデルタが近いこともあり栄えていましたが、第一次インドシナ戦争時にフランスやアメリカの資本が流入して、資本主義の考え方をもとに経済的な発展を遂げていました。

ドイモイ政策

さらに、戦後の疲弊しきった国力を回復させるために行われたドイモイ政策※により、もともと市場経済の基盤が出来上がっていたホーチミンはさらに発展していくことになります。こうして、ホーチミンはベトナムの首都ではないが、経済の中心地としての地位を確立していきました。

※ドイモイ政策
それまで社会主義体制をとっていたベトナム政府が、社会主義体制が国の発展の妨げになっているという考えのもと、社会主義政策の緩和と市場経済の導入を決定しました。この方針転換で、国民の労働意欲が刺激され、経済活動が活発になっただけでなく、工業や農業も発展していきました。

様々なハノイ

政治の中心地

国会議事堂

2014年にホーチミン廟の向かいのバーディン広場に完成しました。ここでは、国会・国会常務委員会の会議のほか、国の記念行事や外国の賓客の歓迎式典などが行われることになっています。一般公開はされていませんが、地下にはハノイに宮殿が築かれていた頃の出土品が展示されている施設があり、歴史的にかなり価値のあるものが多く展示されています。

文化の街

政治と文化の中心と呼ばれるハノイの文化的側面を紹介していきます。以下では、有名観光地であり歴史的価値のある場所の一部を紹介していきます。

タンロン遺跡

タンロン遺跡

11世紀ごろに李朝が王城を築いた場所で、2010年ベトナムで6ヶ所目のユネスコの世界遺産に登録されました。2005年に発掘調査が終わり、現在では一部が一般公開されていますが、調査のために入域が制限されることもあります。

文廟

もともとは孔子をまつるために作られましたが、1076年ベトナムで初の大学が開校された場所でもあります。数多くの学者や政治指導者を輩出した歴史ある場所で、本殿・石碑・孔子像などを見学することができます。中でも二重の楼門が象徴的な第三の門「奎文閣」は、その美しさからベトナム紙幣にも描かれています。

※廟:中国固有の宗教建築のことで、祖先・先人の霊を祭る建物のことを指します。

旧市街

旧市街

約1000年の歴史を持つハノイの旧市街は迷路のように入り組んだ街並みが特徴的で、古都ならではの雰囲気を味わうことができます。同業組合が36あったことに由来しているハノイ36通りと呼ばれる通りがあり、通りごとに販売しているものが異なり観光名所となっています。

ホーチミン廟

ホーチミン廟

ベトナムの初代大統領ホー・チ・ミンを祭っている霊廟で、ベトナム人も多く参拝に訪れる場所です。常に厳重な警備が行われていることもあり、周辺は妙な静けさがありその荘厳な建物の雰囲気に圧倒されます。中を見学することもできますが、中に入る際には、荷物・カメラなどを預けなければならず、サンダルや露出の多い服装は厳禁です。

伝統芸能

ハノイでは、水上人形劇、カーチューなどのベトナムの様々な伝統芸能を鑑賞することができます。

水上人形劇は字のごとく、伝統民謡の音色にあわせて水面の上で人形を動かすもので、ベトナム北部の伝統的な人形劇です。人形劇ではハノイ王朝の伝説や農村部の生活が描かれ、ベトナム語がわからなくても人形たちのコミカルな動きと伝統民謡の音楽を十分に楽しむことができるため、旅行客に人気のショーです。

カーチューとは、ベトナム最古といわれている伝統芸能で、ユネスコの無形文化遺産にもなっています。伝統的な3つの楽器を使用して音を奏で、それに合わせてベトナム語の詩を歌うといったものです。

食の街

ハノイでは様々な食べ物を楽しむことができますが、中でもハノイの名物料理を3つ紹介します。

フォー

ハノイが発祥といわれているベトナムの国民食で、牛や鶏からとったスープに肉とネギ、コリアンダーをトッピングしたシンプルなフォーが特徴です。南部ホーチミンとはまた違った味わいを楽しむことができます。

エッグコーヒー

エッグコーヒー

卵黄とコンデンスミルクをクリーム状に泡立てたものをベトナムコーヒーの上にのせたハノイ発祥のコーヒーです。カスタードのようななめらかな味わいが特徴的で、甘いもの好きなベトナム人ならではの発想です。

ブンチャー

ブンと呼ばれる米粉麺を炭火で焼いた豚肉やつくね、香草と一緒に甘酸っぱいたれにつけて食べるベトナムのつけ麺です。北部の名物料理で、ハノイで一度は食べてほしい逸品です。

おわりに

おわりに

今回は、ベトナムの首都ハノイについて紹介しました。ベトナムの首都はホーチミンだと思っている人も多いですが、首都はハノイです。ハノイは1000年以上前からベトナムの重要な拠点としての役割を担っていた都市で、ベトナム建国の父として慕われているホー・チ・ミン氏が暮らしていた街でもあります。みなさんも、ハノイに旅行に行った際にはその歴史を感じてみてください。

それでは、ヘンガップライ!

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