【5分でわかる】ベトコンとは?南ベトナム解放民族戦線の成り立ち・歴史背景をわかりやすく解説します。

ベトナムの歴史
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ベトナムを語るで外せない出来事がベトナム戦争です。そのベトナム戦争の歴史において度々登場する「ベトコン」と呼ばれる兵士。一体この「ベトコン」とはどういった意味を持ち、どのような人たちを指す言葉なのでしょうか。今回はベトコンについてわかりやすく解説します。

ベトコンとは

ゲリラ戦に望むベトコン

ゲリラ戦に望むベトコン

画像出典:wikipedia

ベトコンとは、南ベトナム解放民族戦線の構成員を指す言葉です。南ベトナム解放民族戦線は、ベトナム戦争の最中に、同国(南ベトナム)内で結成された、南ベトナム政権に対する反政府組織です。ベトナム解放戦線、南ベトナム解放戦線とも呼ばれています。

ベトコンの意味は、ベトナム語で共産主義者を意味するベトナムコンサン(Việt Nam Cộng sản)を略した言葉です。これは、南ベトナム解放民族戦線の多くが、共産主義を支持する人たちで構成されていたためです。当時の南ベトナム大統領ゴ・ディン・ジエムが蔑称として名付けたと言われています。よくベトナムコンバットの略と言われることがありますが、これは間違いです。

また、南ベトナム解放民族戦線は、民兵組織の側面もあるため、兵士や構成員は男性だけではありませんでした。ベトナムは元来、女性も男性も分け隔てなく外に出て働く文化があるため、男性に混じって最前線で戦う女性の兵士も多くいました。

ベトコンは南ベトナム人による組織

南ベトナム解放民族戦線の旗

南ベトナム解放民族戦線の旗

画像出典:wikipedia

ベトコンについて、まず理解しなければならないことは、ベトコンは南ベトナム人によって構成された、南ベトナム政権に対する反政府組織だということです。南ベトナムの一般民衆、南ベトナム政府関係者、南ベトナム軍の兵士や将校の中にも秘密裏にメンバーがいたとされており、今でもかつて構成員だったことを公表していない人々が多数存在していると言われています。

ここで注意して理解しておくべきことは、ベトコンは、当時、南ベトナムと戦争をしていた北ベトナム人や北ベトナム軍兵士では無い、ということです。あくまでも定義は、自国内の政府に対する反政府組織(レジスタンスやパルチザンと同様)です。

ただし、ベトコンの行動や作戦は、実質的に北ベトナム政府や北ベトナム軍将校が指導していたため、ベトナム戦争終結後に北ベトナム軍に吸収されました。後ほど詳しく解説しますが、北ベトナム軍に吸収されたベトコン出身の兵士は、吸収後、厄介者として冷遇されることとなります。

ベトコン発足の歴史

捕らえられたベトコン

画像出典:wikipedia

1954年の第一次インドシナ戦争終結後、ベトナムは、諸国の思惑、政治介入により、北ベトナム(ロシアや東側諸国が支援する共産主義国)と南ベトナム(アメリカや西側諸国が支援する資本主義国)に分断されていました。

そのような中で、1955年に、南ベトナム国内で行われた共産主義者弾劾運動により、5万〜10万人の人々が強制収容所に送り込まれたと言われています。その後も、南ベトナム政府による共産主義者狩りは一層激しさを増し、逃げ延びた共産主義支持者たちは憎悪を募らせている状態でした。

それでも、1956年にジュネーブ協定で催行が決定されていた「南北統一選挙」に期待して、多くの共産主義者が南ベトナムに残っていました。しかしその約束は、南ベトナム政府(アメリカの傀儡政権)により、一方的に反故されてしまいます。

これら一連の流れを受け、生き残った南ベトナムの共産主義支持者は、北ベトナムと連携して、ベトナム統一のための戦争の準備(反政府活動)を始めることになります。やがて南ベトナムでは、共産主義者による反政府テロが頻発し、内戦状態に陥ります。

そしてついに1960年、南ベトナムの共産主義者らを中心に、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が発足します。その後、南ベトナム解放民族戦線は、北ベトナム軍と連携しながら、より激しく大規模な抵抗活動を展開していきます。

ベトコンのベトナム戦争での活躍

クチトンネルで再現されている兵士の様子

クチトンネルで再現されている兵士の様子

1965年、ついにベトナム戦争が始まりました。当然、これまで、反政府活動を続けてきたベトコンもこれに参加します。ベトナム戦争でのベトコンの戦い方は、徹底したゲリラ戦闘(少人数の奇襲によって損害を与え,大規模の敵が集中する前に姿を消して損害を免れる戦闘方式)でした。

この戦闘方式が採用された背景には、先の第一次インドシナ戦争で培われた経験によるものがあります。この戦闘方式が効果的に作用し、ベトコンは、近代兵器を有する南ベトナム側の兵力に対して、少なからず損害を与える存在になっていきました。

クチトンネル

クチトンネル

特に、ホーチミン市の周辺に張り巡らされた地下トンネル基地「クチトンネル」は有名です。全長200kmにも及ぶ広大な地下トンネル基地は、アメリカ軍の近代兵器や苛烈な空爆から身を守るために建造されました。

戦時中、ベトコンの兵士たちは、この狭い地下トンネル内に身を潜めて暮らし、地下を移動して出口から出口へと移動しながら、神出鬼没の戦闘を行いました。この地下トンネルは、ベトナム戦争終結まで、ついに攻略されることはありませんでした。

ゲリラ戦の弊害

ベトコンによる自爆テロ

ベトコンによる自爆テロ

画像出典:wikipedia

ベトコンは英雄的な活躍で北ベトナム側の勝利に大いに貢献しましたが、その一方で、南ベトナム国民に恐れられる存在でもありました。ゲリラ戦を展開していく中で、南ベトナム領土内の農村を根拠地としていたため、根拠地とされた農村の中では少なからず、略奪に近い現地調達や強制的な徴兵が行われていたとされています。

また、南ベトナム政権支持者やその協力者とみなした市民に対して、処刑を行ったとされています。さらに、南ベトナム政権に対する無差別爆弾テロに市民が巻き込まれる自体も多発していました。こうした背景から、今でもベトコンに対して嫌悪感を持っている人も少なくありません。

戦争の泥沼化

アメリカ軍のサーチ・アンド・デストロイ作成

アメリカ軍のサーチ・アンド・デストロイ作成

さらに、ベトコンのゲリラ戦は、ベトナム戦争の長期化と泥沼化を生み出す要因となります。ベトコンは、一般民衆の中に紛れて戦闘を逃れる手法をとったため、南ベトナム軍やアメリカ軍は、一般民衆とベトコンの見分けがつかなくなり、ベトコンが潜んでいる農村の焼き討ちや、一般民衆の虐殺が行われる要因になりました。

これらの焼き討ちや虐殺行為は、直接的な加害者である南ベトナム軍やアメリカ軍に責任があることは明確ですが、ある意味、ベトコンも市民を盾に活動を続けていたと捉えることもできるでしょう。

ベトナム戦争終結後のベトコン

ジュネーブ協定

ジュネーブ協定

画像出典:wikipedia

苛烈な抵抗活動、アメリカ本土や世界中での反戦運動、アメリカ軍の撤退、南ベトナム政府の崩壊などを経て、ついに1975年4月30日南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、北ベトナム側の勝利でベトナム戦争は終結します。

ベトナム戦争終了後の1977年1月23日、結成当初からベトコンを率いていたグエン・フー・ト議長が「南ベトナム解放民族戦線は歴史的役割を輝かしく完遂した」と宣言し、組織が解消しました。解散後は、軍事部門はベトナム人民軍(旧北ベトナム軍)に吸収されました。

しかし、旧ベトコンの兵士たちは、指導部のほとんどが北部出身の同軍内で疎まれるようになり、その冷遇から反発も頻繁にあったと言われています。

カンボジア・ベトナム戦争での旧ベトコン兵

カンボジアの密林に放置された戦車

カンボジアの密林に放置された戦車

1978年、隣国カンボジアとの領土紛争がついに戦争に発展します。このカンボジア・ベトナム戦争において、南部でのジャングル戦になれている旧ベトコンの兵士たちは、その多くが危険な最前線に送られました。しかし、この人員配備は旧ベトコンの口減らしだった、とする意見もあります。

1978年12月25日に開始された大規模侵攻では、旧ベトコン兵の苛烈な戦いにより、わずか2週間程度でカンボジア軍を殲滅、カンボジア国土の大半を占領することになります。しかし、その英雄的な活躍とは裏腹に、自国に帰ることも許されず、カンボジアに駐留して統治を任命される兵士が多くいたとされています。

まとめ

ベトコンに釣れられるアメリカ軍兵士の捕虜

ベトコンに捕らえられたアメリカ軍兵士の捕虜

画像出典:wikipedia

南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の歴史と変遷についてご紹介しました。ベトコンに対する評価は、北側と南側、思想などによって様々な賛否があります。しかし、最前線で、自国のために命をかけて勇敢に戦った兵士がいたことは紛れもない事実です。

今日のベトナムの平和は、彼らのような尊い犠牲の上に成り立っている、ということを決して忘れてはなりません。今回の記事で出てきた、ベトナム戦争の歴史やクチトンネルについては、別の記事でも詳しく解説しています。ぜひそちらの合わせてご参照ください。

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