ベトナム戦争を解説します。なぜ小国ベトナムが大国アメリカに負けなかったのか?それを取り巻く世界の資本主義・社会主義の戦いから終戦まで!

ベトナムの歴史
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約20年に及ぶベトナム戦争では、多くの被害とともに資本主義と社会主義がぶつかり合った戦争でした。当時、ベトナムは南北に分断されており、結果として社会主義である北ベトナムが勝利を収めます。

アメリカの指導や支援があった南ベトナムは、なぜ負けてしまったのでしょう。この記事では、ベトナム戦争が始まった背景からベトナムが勝利した理由までを解説していきます。ベトナム戦争が代理戦争と呼ばれた理由も合わせてご覧ください。

ベトナム戦争はなぜ始まったのか?

ベトナム戦争は、1955年11月1日~1975年4月30日まで続いた戦争です。第二次インドシナ戦争の中でも最大規模で、多くの犠牲者を出しました。

ベトナムは以前からフランスや日本の植民地として支配されていましたが、その背景もベトナム戦争が始まったきっかけでもあります。

なぜアメリカが介入したのか、その歴史を探っていきましょう。

アメリカが軍事的支援を開始

 

ベトナムはもともとフランスの植民地でした。フランスはベトナムを始め、インドシナ半島を植民地化しており、カンボジアやラオスも支配していました。

一度は日本に植民地を奪われましたが、第二次世界大戦で敗戦した日本は撤退します。その後、フランスは再度、植民地再建のためインドシナへ戻ってきますが、各国で独立運動が高まり、1954年、植民地化をやめました。

ここに目を付けたのがアメリカです。同時、ベトナムは南北に分断されており、アメリカは南ベトナム国家へ財政面や軍事面で支援を行います。

やがて北ベトナム軍とのゲリラ戦が開始。1959年にはアメリカの軍事顧問が1,000人あまりでしたが、5年後には2万人超もの顧問を集めます。

この当時、北ベトナム軍は4万人もの兵士を持っていました。

トンキン湾事件で戦闘が本格化

ゲリラ戦が繰り広げられる中、衝撃的な事件が起こります。

1964年8月、北ベトナム軍がアメリカの駆逐艦に2発の魚雷を発射。この事件はトンキン湾事件と呼ばれ、アメリカに大きな衝撃が走りました。

トンキン湾事件により、アメリカは初めて戦闘部隊を派遣。兵力は18万強にまで拡大しました。

大国アメリカには十分な兵力と武器があったため、圧倒的な力がありました。地上部隊、空爆など破壊作戦を展開し、軍事力もより強化します。

ベトナムがアメリカに勝利した理由

圧倒的な軍事力を持っていたアメリカですが、北ベトナムに敗北しました。ベトナム戦争が始まった当初、アメリカは早々に勝利を予測していたにもかかわらず、流れは大きく変化します。

なぜベトナムがアメリカに勝利できたのか?そこには、さまざまな原因がありました。

南ベトナムの弾圧に反対運動が激化

ベトナム戦争は、南ベトナムと北ベトナムが対立した戦争です。

南ベトナムには、民主主義を掲げたジエムが大統領に就任。ジエム政権は、自由主義者やカトリック教徒らが指示していました。

ジエム大統領が就任中、ジュネーブ協定が結ばれ、南北統一選挙を行うようになっていましたが、ジエム大統領は一貫して拒否を貫きます。また、ジエム政権は独裁政権を思わせる政治で、政権を私物化。

これらの動きは、反政府勢力を拡大していきます。ジエム政権時代には、残虐な拷問や死刑が繰り返され、1960年までに80万人が投獄されました。農民の収容所が計画されたときは、農民の家を壊し、強制的に農民を収容。

あまりに身勝手な政権に抗議運動が加速化し、その後ろ盾をしていたアメリカにまで勢力が及んでいきました。さらに反政府勢力の勢いは高まり、各地で戦闘が繰り広げられました。

アメリカ国内の反発と米軍の士気が低下

ベトナム戦争は深刻化していることもあり、世界中で反戦運動が起こりました。現地のリアルな状況をすぐさまメディアで知られる時代ということもあり、アメリカ国民は反戦ムード一色。

アメリカ国内の反発を受けてか1969年、アメリカはベトナミゼーション政策を打ち出します。この政策により、アメリカ軍が戦闘に参加する規模も減っていき、南ベトナム軍によって戦われました。

1972年にはアメリカ軍の地上部隊を撤退し、アメリカ軍が参戦したとことは、物資輸送や砲兵支援など限られたものです。

母国の反発と同時に、アメリカ兵の士気も下がっていったのがこの頃です。長引く戦争、悲惨な光景を目の当たりにした兵士は、戦闘の意欲を失いました。

反対に勢力を増したのが北ベトナム軍です。アメリカは、軍事力には長けていたかもしれませんが、戦争勝利に対する思いは北ベトナム軍の方が圧倒的に上手でした。

パリ協定が大きな転機に

1973年にはパリ協定を締結。これによりアメリカ軍はすべて撤退せざるを得ませんでした。またアメリカ軍の直接的な関与も終わり、ベトナムも平和を取り戻すかと思われていましたが、和平協定は破棄されてしまいます。

そのため紛争は2年間も続きましたが、1975年カンボジアのクメール・ルージュが陥落したのをきっかけに、北ベトナム軍が攻勢。

サイゴン(現在のホーチミン)にある統一会堂へ攻め込み、1975年4月30日に戦争が終わりました。翌年には、無事南北統一を果たしています。

ベトナム戦争が代理戦争といわれた背景

ベトナム戦争は、アメリカとソビエトの代理戦争ともいわれていました。その背景は、第二次世界大戦が大きなきっかけでした。

ベトナムだけでなく世界が、アメリカとソビエトの支配下にあったのかもしれません。

アジアやアフリカの植民地で独立運動が激化

アジアやアフリカは、欧米諸国の植民地として支配されていました。しかし、第二次世界大戦後になると、植民地だった各国は独立運動を開始。

さまざまな国で独立運動が激化し、ベトナムも例外ではありませんでした。

アメリカとソビエトのどちらかがアジア諸国を指導や支援

そんな中、アジア諸国ではアメリカとソビエトのどちらかが、指導や支援している国が目立ちました。

資本主義のアメリカは、アジアや南米諸国に対し、反共主義勢力を支援。一方、共産主義のソビエトは、共産主義の勢力を拡大し世界中を共産化する企みを持って支援を繰り返していました。

当時ベトナムは南北に分裂しており、南ベトナムは資本主義の思想を持ち、北ベトナムは共産主義の思想を受け継いでいた関係上、支援する国も必然的にアメリカとソビエトに分裂。

結果としてアメリカVSソビエトという形になってしまいます。

ベトナム戦争に参戦した国々

ベトナム戦争は、単なるベトナムVSアメリカの戦争ではありません。実際にベトナム戦争に関わった国は、思いのほか多いです。

以下の表を見てもわかるように、ベトナム戦争は完全に資本主義と共産主義による代理戦争。アメリカ率いる南ベトナム側には、6ヵ国もの国が参戦していました。

中でも韓国軍兵士の数は、ずば抜けて多くいます。アメリカ軍は、ベトナム戦争に参戦した韓国軍兵士に約60$もの給料を渡していたのも、兵士が多かった背景かもしれません。

南ベトナム側(資本主義) 北ベトナム側(共産主義)
南ベトナム 北ベトナム
アメリカ ベト・コン
韓国 ソビエト
オーストラリア 北朝鮮
タイ 中国
フィリピン  
ニュージーランド  

今も残るベトナム戦争の影響

ベトナム戦争の影響は、ベトナムだけでなくアメリカにまで及んでいるのはご存じですか?

ベトナム戦争は史上最大の戦争ともいわれており、アメリカ軍が使用した弾薬は第二次世界大戦よりも多いものでした。

長きに渡った戦争では、ベトナムとアメリカ両方で今も影響が残っています。どのような被害が影響しているのか、それぞれの国で見ていきましょう。

枯葉剤による健康被害

ベトナム戦争の枯葉剤による影響は、あまりにも有名な話です。

枯葉剤はアメリカ軍が使用したものですが、本来の目的は敵の隠れ家があるジャングルを絶滅させることでした。農作物を汚染し、敵地から食料を奪うことに使われた枯葉剤ですが、結果として多くの民間人に影響が出てしまいます。

アメリカ軍が散布した枯葉剤は、猛毒のダイオキシンが含まれており、約7,200万ℓも撒かれました。

枯葉剤の影響は現在も続いており、ベトナム全土では100万人以上の方が後遺障害に苦しんでいます。

アメリカ兵のベトナム症候群

ベトナム戦争では、参加したアメリカ兵にも重大な被害をもたらしています。

戦争では多くの敵を殺害。ベトナムで枯葉剤の影響を目の当たりにしたことがトラウマとなって、精神的に追い詰められました。この症状をベトナム症候群と呼んでいます。

ベトナム症候群にかかった元アメリカ兵は、社会からも拒絶され社会復帰が困難にまで陥っています。

まとめ

ベトナム戦争は、アメリカの介入により大きな戦争へと発展しました。

アメリカがすぐ勝利すると思われた戦争ですが、結局アメリカはベトナムから撤退せざるを得なかったのは、ベトナムの愛国心に負けたのかもしれません。

多くの国が参戦し、また今も続く犠牲者を出したベトナム戦争。代理戦争に使われたベトナムは、いちばんの被害国なのは間違いないでしょう。

ベトナム各地には、今もベトナム戦争の悲惨さを伝える博物館やスポットがたくさんあります。ベトナム旅行の際は、これらに訪れてみるのもおすすめです。