激動の時代を生き抜いたベトナムの英雄「ホーチミン」。現在のベトナムの形があるのはホーチミンのおかげといっても過言ではありません。今でも国民から愛されているホーチミンは一体どんな人なのか、この記事で詳しく紹介します。
今でもベトナム国民から愛されるホーチミン
ベトナムの「建国の父」であるホーチミン。ホーチミンは国民から「ホーおじさん」という愛称で呼ばれるほど、今でも国民から愛されています。
ホーチミンが亡くなって50年以上経っても愛されているのは、どんな理由からでしょう。さまざまなエピソードを見てみると、ホーチミンの人柄がよくわかります。
ホーチミンのプライベートと人柄
ホーチミンはプライベートを一切公表しなかったと言われています。自分を神格化するのを嫌っていたそうです。現在ハノイには立派なホーチミン廟がありますが、本来この廟はホーチミンが望んでいた形ではありません。
今でもホーチミンが愛されている理由のひとつに、生前、汚職に手を染めなかったこと。そして、庶民の視点に立って接する姿は、当時から国民を虜にしていました。
晩年過ごした家はハノイの「ホーチミンの家」に残っており、観光スポットになっています。ホーチミン廟とセットで見学してみてください。
ホーチミンのエピソードと鋭い勘
ホーチミンにはさまざまなエピソードが残されています。その人柄と鋭い勘がわかるエピソードを紹介します。
エピソード①
国民の生活を見たいと希望したホーチミンは、ハノイでいちばん貧しい母子家庭を訪問しました。
当時、テト(旧正月)にもかかわらず、母親は働きづめ。仏壇へのお供え物もなく、食べるのに必死の状態だったそうです。
この光景を目にしたホーチミンは近所の人に駆け寄り、この家庭を助けてあげてほしいと伝えました。同時に仕事や子どもの就学をサポートしたと伝えられています。
エピソード②
1954年、ディエンビエンフーの戦いに勝利したホーチミン側。当時指揮をしていたヴォー・グエン・ザップ将軍に、ねぎらいと次の戦いについてこう述べたそうです。
「ご苦労だったね。でも次はアメリカが待っているよ。」
当時、アメリカと戦争をするなんて誰も予想していませんでした。しかし、ホーチミンはアメリカとの激戦を予想。この鋭い勘も民衆を引きつける要因だったのかもしれません。
幼少期のホーチミンは語学堪能
ホーチミンがここまで英雄になったのは、幼少期からの語学も関係していました。1890年5月19日に生を受けたホーチミン。子どもの頃から語学に熱心で、当時は論語から中国語を学んでいました。
やがてベトナム人官吏を養成する国学でフランス語を習得。すでに二か国語をマスターしたホーチミンは、世界へと目を向けるようになります。
世界を旅した20代のホーチミン
ホーチミンは船の見習いコックとして働くようになります。そして船と共にフランスへ。
1911年7月6日、フランスのマルセイユに到着したホーチミンは、ここで海外暮らしを体験しました。フランス語をマスターしていたホーチミンは、フランスでの生活も難なくこなせたでしょう。
しかし、マルセイユでの体験は貴重でした。というのも、フランスにも植民地であるベトナムと同様、貧しい人が一定数いたのです。本国は裕福な生活を送っていると思っていたホーチミン。
ほかの国も興味が湧いてきて、ホーチミンは船員として各国を回っていきます。語学堪能なホーチミンはその後、英語を学ぶためにイギリスに移住しました。
ホーチミンはフランスで政治活動を開始
イギリスに移住したホーチミンは、1917年12月にフランスのパリに戻ります。初めて滞在したマルセイユでの経験が衝撃だったホーチミンは、政治活動を開始。
1919年にはフランス社会党に入党しました。この年「パリ講和会議」が開催され、ホーチミンは「安南人民の要求」という請願書を提出します。
請願書は8項目から構成されており、自由の保障を要求。当時フランス植民地だったベトナムも、フランス同等の権利を保障してほしいという内容が書かれていました。
この請願書は採択されなかったものの、ホーチミンの名は世界に知られるきっかけに。ホーチミンは1917年のロシア革命で、ウラジーミル・レーニンを支持していました。
1920年、フランスの機関紙「リュマニテ」にレーニンが提唱した「民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案」が掲載。ひどく感銘を受けたホーチミンはフランス共産党に参加し、共産主義者となります。
ベトナムにおけるホーチミンの政治活動
ホーチミンは故郷ベトナムに帰国。ベトナムでの政治活動は盛んに行っていました。当時はまだフランス植民地だったベトナムですが、1939年に第二次世界大戦が始まります。
各国のフランス植民地政府は
- 親独ヴィシー政権
- 亡命政権「自由フランス」
の選択を迫られます。
第二次世界大戦中、日本もベトナムに侵略していたこともあり、ヴィシー政権に付くことになりました。
一方でホーチミン側は、香港(イギリス領)、モスクワ、中華民国の延安、雲南省で活動を始め「ベトナム独立同盟会」を結成。ホーチミンはその主席に就任します。
さらにホーチミンは中華民国と協力関係を結ぼうとしますが中国国民党により逮捕され、1943年9月まで牢獄で過ごしました。
第二次世界大戦で敗北した日本をきっかけに、ホーチミンは政権奪取に向けて動き出します。全国規模でインドシナ共産党大会を開き、1945年9月2日、ホーチミンはハノイで独立宣言を発表。そしてベトナム民主共和国を建国し、国家主席と首相を兼任しました。
やっと独立までたどり着けたと思ったのも束の間、フランスがまたフランス領インドシナの主権を主張してきます。ベトナムとフランスは交渉を続けるも、難航が続きました。
ホーチミンは粘り強く交渉を続け、1946年にハノイ暫定協定を成立。1954年にジュネーヴ協定が成立し、晴れてフランス軍はベトナムから撤退していきます。
ベトナム独立を見ずして死亡したホーチミン
ベトナムにも平穏な日常が訪れるかと思いきや、今度はアメリカがベトナムに介入してきます。ホーチミンがディエンビエンフーの戦い後に言っていた「次はアメリカが待っているよ」が現実になったのです。
アメリカは南ベトナムに活動拠点を置き、ベトナム共和国を設立しました。ベトナム共和国はアメリカからの支援を受け、経済的、軍事的にも圧倒的な強さです。やがて北ベトナムとの本格的な戦いが始まり、ベトナム戦争へと発展していきました。
今までのホーチミンは強力なリーダーシップを取っていましたが、ベトナム戦争ではそこまででもなかったそうです。しかし、ベトナム民主共和国の元首として、ベトナム人に励まし続けました。
ベトナム戦争が終結に向かう中、ホーチミンは1969年9月2日に79歳で亡くなります。ベトナム戦争が終結したのは1975年4月30日でした。
今のベトナム社会主義共和国が成立したのは、翌年の1976年7月2日です。現在、南部の経済都市ホーチミン市はもともとサイゴンという名称でしたが、ホーチミン氏にちなんで改称されました。
まとめ
誰よりもベトナムの独立と統一を願っていたホーチミン。最後はベトナム独立を見ずして亡くなってしまいましたが、ホーチミンがベトナムに捧げた努力は無駄ではありません。
今もベトナム国民に愛されているホーチミンは、その人柄と行動が評価されているのでしょう。
ホーチミンはベトナム紙幣にも印刷されています。また、街の至るところでホーチミンの肖像画や銅像を目にしますので、観光の合間に探してみるのもいいでしょう。