ベトナムの【世界遺産】フエ王朝の歴史を解説します。ベトナムのラストエンペラーが眠る古都。そして様々な王(人物)とその帝陵について。

ベトナムの世界遺産
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ベトナム中部に位置するフエ。ここは、ベトナム最後の王朝があった都市としても知られています。世界遺産にも登録されているフエ王朝には、歴代の皇帝が残した史跡がたくさんあり、観光巡りにもおすすめの場所です。

フエ王朝がどのように反映し衰退していったのか、歴史とともに功績を残した帝陵を紹介します。各皇帝によって特色が違っているのも、フエ王朝を観光する楽しみのひとつです。

ベトナムで初めて世界遺産に登録されたフエ王朝

ベトナム中部にあるフエは、幾度となく占領と争いが起こった地域です。ベトナム最後の王朝が誕生した背景には、フエの地を愛する一人の皇帝がきっかけになっています。
フエ王朝が誕生してからも、外国からの占領が絶えませんでした。フエ王朝が誕生してから崩壊までの流れを見ていきましょう。

フエ王朝の誕生と反映

かつてベトナム中部では、チャム族を中心としたチャンパ王国がこの地を支配していました。その後、胡朝時代が始まりますが、明の侵略により崩壊します。侵略と争いが絶えない時代が続き、広南阮(クァンナム)で唯一生き残った人物がフエの地に王朝を築きました。

広南阮はベトナム中部から南部を支配していましたが、西山朝により滅ぼされていました。しかし、現在のタイに逃げていた一人の人物が、フエ奪還を目指します。その人物が、フエ王朝の最初の皇帝「ザーロン帝」です。

ザーロン帝の死後、ミンマン帝が皇帝の座に就きます。ミンマン帝は、フエ王朝を最盛期迄発展させた皇帝。政治力に長けており、外交も積極的でした。

しかし、フランスが国交を求めてきた際は激しく抵抗したようです。外国人との取引を規制したり、キリスト教を廃止したりと、西洋との取引を嫌った人物でした。

その後、ティエウチ帝とトゥドゥック帝が皇帝となります。トゥドゥック帝の時代には、再びフランスが国交を迫り、ダナンへの攻撃が始まりました。

フランス植民地から崩壊までの流れ

1883年、ついにフランスに占領されたベトナム。トゥドゥック帝は第二次フエ条約を締結し、フランスの保護国となります。フランスに占領されてからもフエ王朝は継続。しかし、フエ王朝は表向きで、実験はフランスが握っていました。

何名かの皇帝が即位し、フエ王朝の流れが大きく変わったのはカイディン帝が即位したときです。カイディン帝は1922年、フランス・マルセイユで開催された博覧会に出席し、フランスの建造物にとても感動しました。

ベトナム帰国後は、王宮の建物をバロック様式に改築するよう命令。完全にフランスの虜となったカイディン帝は、派手好きと増税の影響もあり、国民から反発を受けたようです。

カイディン帝の死後、最後の皇帝バオダイ帝が即位しました。フランス植民地だったベトナムですが日中戦争の勃発により、日本軍が侵略。今度は日本軍の実質的な支配を受けるものの、バオダイ帝はベトナム帝国を宣言し、フランスからの独立を果たしました。

しかし、第二次世界大戦で日本が敗戦すると、1945年8月17日「ベトナム八月革命」が勃発し、ベトナム帝国は崩壊。長きにわたり、ベトナムの王朝を守ってきたフエ王朝も、ここで終わりを告げました。

世界遺産「フエ王朝」で回りたい帝廟4選

フエ王朝は、1802~1945年まで続いた、とても長い王朝です。その中で王の座に就いた皇帝は13名います。

ここからは、フエ王朝を代表する皇帝と帝廟を紹介します。フエ王朝の歴史を頭に入れておくと、各皇帝の帝廟を見るときに時代背景が目に浮かびます。帝廟を回るときは、建物の特徴にもぜひ注目してみてください。

フエ王朝の初代皇帝「ザーロン帝廟」

出典:wikipedia-Tomb of Gia Long

ザーロン帝はフエ王朝の初代皇帝で、一世一元という君主ごとに年号を定める制度を導入した人物としても知られています。当時、国交のあった清から「越南」という国名を与えられ、ベトナムという国名が誕生したのもザーロン帝の時代です。

ザーロン帝廟は他の帝廟とは違い、敷地が5倍もある広大な広さを誇っています。フエ市街からも離れているため、ザーロン帝廟を回るときは時間に余裕を持った方がいいでしょう。

ザーロン帝廟の見どころは以下の2つです。

  • 明成殿
  • 陵墓

明成殿は、豪華な朱色と金色の建物で、寝殿と礼拝堂になっています。殿内にはザーロン帝と皇后の位牌も祀られています。

陵墓は、ザーロン帝と皇后の棺が並べられている場所。陵墓には鉄扉がありますが、この地はベトナム戦争の影響も受けており、弾痕が生々しく残っています。

政治力の長けていた2代目皇帝「ミンマン帝廟」

フエ王朝の繁栄に大きく貢献したミンマン帝。
ミンマン帝は儒教を厚く信仰しており、清との関わりも深かった皇帝です。そのため、清の文化や政治は積極的に取り入れました。ミンマン帝時代に建てられた建造物は、清の建物を模倣したものもたくさんあります。
ミンマン帝は外交にも積極的でした。とはいえ、外交といっても周辺国ばかりです。この頃、フランスがキリスト教布教のためにベトナムを訪れており、ミンマン帝は西洋の文化をひどく嫌っていました。
そのため、交易に訪れる欧米人を規制し、キリスト教を弾圧。さらに1836年には宣教師を7名処刑まで人物です。
ミンマン帝廟は、中国様式を取り入れた造りになっているのが特徴。1,750mもの城壁に囲まれており、周辺は民家が建ち並んでいます。
ミンマン帝廟の見どころは
  • 大紅門
  • 明楼

です。

大紅門には3つの入り口がありますが、観光客が通れるのは左右の2つだけ。中央の入り口は、ミンマン帝の死後からずっと閉鎖されています。

明楼は、楼閣でミンマン帝が使ったといわれる寝台が置かれています。ミンマン帝は詩文が好きだったこともあり、詩文の彫刻がたくさん掘られているのも帝廟の特徴です。

在位が最長の4代目皇帝「トゥドゥック帝廟」

フエ王朝の中で、いちばん在位の長かったのがトゥドゥック帝です。ミンマン帝と同じく、儒教を信仰していました人物。
ミンマン帝の意志を受け継ぎ、キリスト教廃止に尽力を注ぎました。1851年には宣教師の立入を禁止し、教会も多く壊されました。
しかし1856年、ナポレオン3世がフランス人宣教師を保護するよう要求してきます。トゥドゥック帝は拒否を続けますが、やがてダナンにフランス軍が侵攻し占領されてしまいます。
この占領をきっかけにコーチシナ戦争が勃発。ベトナムの各地では飢餓と反乱が起こり、トゥドゥック帝は1862年に第一次サイゴン条約を締結しました。
トゥドゥック帝廟は別荘地としても使われており、他の帝廟とは雰囲気がまったく違います。大きな池があったり劇場があったりと、帝廟というよりは憩いの場というイメージです。
トゥドゥック帝廟の見どころは
  • 和謙殿
  • 鳴謙堂
  • 冲謙榭

です。

和謙殿はもともと礼拝堂として使われていた場所。現在は、皇帝の衣装を着て王座に座って記念撮影ができます。

鳴謙堂は劇場として使われていました。天井絵は、天をイメージした星空や太陽が描かれており見ごたえがあります。

冲謙榭は池のほとりに建っている建物で、池に浮かぶ蓮を鑑賞するのにおすすめ。現在は伝統音楽の演奏が開催されています。

別荘地であったトゥドゥック帝廟は、心癒やされる観光スポットとしても人気を集めています。

フランスの影響をもっとも受けた12代目皇帝「カイディン帝廟」

カイディン帝は、フランスの影響をもっとも受けた皇帝として知られています。
カイディン帝が即位したときはすでにフランスの植民地でした。フランスの圧欲が強く、カイディン帝が納得する政治ができずにいましたが、その考えが一変します。
博覧会の開催のため訪れたフランスで、カイディン帝はフランスの建築物に感動。王宮の改築からカイディン帝廟の建築に至るまで、バロック様式を取り入れるようになりました。また現在のアルファベットを用いたベトナム語が誕生したのも、カイディン帝の時代です。
カイディン帝廟は、外観から他の帝廟とは違うことが一目で分かります。帝廟は、フランスから取り寄せた鉄筋コンクリートが使われていること、レリーフや紋様、宝石を埋め込んだ壁など、ヨーロッパを思わせるような建物です。
カイディン帝廟の見どころは
  • 啓成殿
  • 拝庭

です。

啓成殿は、金箔が貼られたカイディン帝像や、四季の花をかたどったモザイクデザインが特徴。天井には龍も描かれており、まさに豪華絢爛です。モザイクデザインの中には、日本のビール瓶が使われている個所もあるので、探してみるのもおもしろいでしょう。

拝庭は、文官や武官を表した石像が並んでいます。石像をよく見ると、靴を履いていないものもあり、当時の地位を知れる貴重なものです。カイディン帝廟にある碑亭には、龍の瞳にフランスワインの瓶が使われています。帝廟からも、フランス建築をこよなく愛した人物であることが伺えます。

まとめ

フエ王朝は、長い歴史とともに悲しい過去も背負っています。中国の影響を受けて作られた建造物も、時代とともに建物の特徴が変わっているのも見どころのひとつです。
フエ王朝の歴史を知ると、フエの世界遺産を回るとき新たな発見が生まれるかもしれません。フエ王宮は現在、修復作業が進められています。復元が完成し、当時の姿が見られる日を待ちわびたいですね。