【ベトナム戦争】ベトナム人の英雄5選。壮絶な人生を歩んだ知られざる偉人達を徹底解説します。

ベトナムの歴史
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ベトナム(かつてのフランス領インドシナ)で勃発した「インドシナ戦争」は、1975年4月30日に、北ベトナムの南北統一という形で集結しました。ベトナム人民の民族自決と国家の独立を目標としたこの戦争は、19世紀後半に始まった独立運動から数えると、実に80年以上に及びます。

その80年に及ぶ歴史の中でも、特に1965年から1975年までの北ベトナムと南ベトナムの戦争を「ベトナム戦争」と呼びます。東西冷戦の真っ只中で勃発したこの戦争は、ソ連を中心とした東側諸国が北ベトナムを支持し、アメリカを中心とした西側諸国が南ベトナムを支持するという、大国の代理戦争に発展します。

前述のとおり、この戦争は北ベトナムの勝利で幕を閉じることになります。なぜ、世界一の軍事力を誇るアメリカが、東南アジアの小国に負けたのか。その議論は尽きることがありません。

一つ確実に言えることは、北ベトナム勝利の影には、知られざる偉人たちの功績があるということです。今回は、ベトナム戦争の歴史を紐解きながら、戦争を勝利に導いた北ベトナム側の偉人5人をご紹介します。

ベトナム建国の父ホー・チ・ミン

ホー・チ・ミン 

画像出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

まずは、ベトナム建国の父、ホー・チ・ミン(本名 グエン・タット・タイン)をご紹介します。ホー・チ・ミンは、1900年代の独立運動から1969年のベトナム戦争後半まで、ベトナムの独立運動を指導した革命家、政治家です。初代ベトナム民主共和国(北ベトナム)主席、ベトナム労働党中央委員会主席を務めました。

人生のほとんどをベトナムの独立運動に捧げたホー・チ・ミンですが、ついに独立を見ること無く、ベトナム戦争最中の1969年9月2日に79歳で亡くなってしまいます。死後、その功績や高潔な人柄がベトナム国民から敬愛され「建国の父」として現在でも崇拝されています。

ホー・チ・ミンの功績

ホー・チ・ミンの功績

ホー・チ・ミンの功績は、その人生のほとんどを、指導者としてベトナムの独立運動に捧げたことです。1890年、フランス領インドシナ(フランス植民地時代のベトナムの呼び名)で生まれたホー・チ・ミンは、学生時代に抗税運動に参加し、フランス当局から目をつけられ退学処分になっています。

その後、船の見習いコックとして、フランス、アメリカ、イギリスを転々とする中で、1917年のロシア革命の影響を受け、レーニンを支持するようになります。さらに、フランス、ソビエト、中国などでの社会主義活動、共産主義活動に参加。革命家、指導者としての頭角を表し始めます。

1930年、ついに香港で、ベトナムの民族自決と独立を目的とした「ベトナム共産党」を結成します。なお、この時代、ベトナム本国ではホー・チ・ミンの仲間やその他の指導者による独立運動が激化を極めており、フランス当局の厳しい弾圧により、そのほとんどが処刑されています。

1941年、第二次世界大戦でフランスがドイツに占領されたため、ベトナムは同盟国である日本の統治下に置かれます。君主国不在のこの機を逃さないために、ついにホー・チ・ミンは30年ぶりにベトナムに帰国します。そこでベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織し、日本軍に対して軍事的な抵抗活動を開始します。

そしてついに、1945年8月15日の日本の敗戦、君主国不在の空白期間に乗じて、1945年9月2日、ベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国します。そこでホー・チ・ミンは、初代国家主席兼首相に就任します。

しかし、かつての君主国フランスがこれに反発。1946年、ベトナム民主共和国と再統治を図るフランスで戦争が勃発します。これが第一次インドシナ戦争です。この戦争でベトナムはフランス軍を圧倒。1954年、ジュネーブ協定によりフランスはベトナムから徹底します。

しかし、これに反発したのがアメリカです。アメリカはフランスと結託し、ジュネーブ協定を一方的に反故。1955年に南部サイゴンを首都としたベトナム共和国(南ベトナム)を建国します。そしてホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)で戦争が始まります。これが第二次インドシナ戦争、通称ベトナム戦争です。

ベトナム戦争は、軍事大国アメリカが南ベトナム側に直接軍事介入をし、北ベトナム側はおびただしい犠牲を強いられる戦いになりました。この間、ホー・チ・ミンは北ベトナムの国家元首として「独立と自由ほど尊いものはない」と南北双方のベトナムの人民に呼びかけ、鼓舞し続けました。しかし、ついに独立を目にすること無く、1969年9月2日、心臓発作で亡くなってしまいます。

指導者を失った北ベトナム側陣営ですが、ホー・チ・ミンの死により、さらに独立に対する意識が高まったとされています。そしてついに、1975年4月30日、南ベトナムの全面降伏によってベトナム戦争が終結、ホー・チ・ミンの夢であったベトナムの民族独立(国家統一)が達成されます。

以上がホー・チ・ミンの功績となります。建国の父と言われているように、ホー・チ・ミンの歴史はベトナム建国の歴史と言っても過言ではありません。

ホー・チ・ミンの死後とその後

ホー・チ・ミンの死後とその後

ホー・チ・ミンは、ベトナムの紙幣(ドン)のすべてに描かれており、同国最大の都市(ホーチミン市)の名前になるなど、ベトナム国民の象徴的存在になっています。また、他の共産主義指導者と違い、個人崇拝を嫌い、素朴な生活に努めたため、その高貴な人柄が民衆から尊崇を集め「ホーおじさん」と呼ばれ愛されています。

一方で、反共産主義の元南ベトナム国民から「ベトナムを武力によって共産化した首謀者」として憎悪の声があがることも少なくありません。このことからホー・チ・ミンの評価は二極化しているとも言えるでしょう。

北ベトナム軍の総司令官ヴォー・グエン・ザップ

ヴォー・グエン・ザップ

画像出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

先程のホー・チ・ミンとともに、ベトナム独立に最も貢献した人物として挙げられるのが、ヴォー・グエン・ザップ将軍です。ザップは、名実ともにホー・チ・ミンの右腕となり、ベトナム人民軍(北ベトナム軍)を束ねる総司令官として北ベトナムを勝利に導きました。

その類稀なる軍事戦術(ゲリラ戦術)で、西側諸国からは「赤いナポレオン」として畏怖され、ベトナム国民からは「ベトナム救国の英雄」として尊敬を集めました。また、ベトナム戦争終結後のカンボジア侵攻、中越戦争でもベトナム人民軍を指揮し、それらを撃退しています。

中越戦争終結後は、国防大臣や副首相を歴任。1991年に政界を引退した後も、ベトナム政府の汚職や腐敗に対する批判を続けたため、「真の愛国者」「ザップの兄貴」と呼ばれ特にベトナムの若者に人気があります。2013年に102歳で亡くなった際には国葬が執り行われました。

ヴォー・グエン・ザップの功績

ヴォー・グエン・ザップの功績

ヴォー・グエン・ザップの功績は、その類稀なる軍事手腕で、フランス、日本、アメリカ、カンボジア、中国との戦いでベトナムを勝利に導いたことです。しかし、それ以上に、ベトナムの独立に文字通りすべてを捧げた執念が評価されるべきだと思います。

ザップは、1911年、独立運動家の父のもとに生まれました。ザップが8歳のときに、父はフランス当局に逮捕され、獄死しています。また同時期に姉も逮捕されており、姉は獄中での生活が原因で釈放後まもなく病死してしまいます。

1926年、15歳でザップは新ベトナム革命党に入党します。そこで学生運動に身を投じ、フランス当局に逮捕され13か月間服役します。さらに、釈放後すぐにインドシナ共産党に加入。反政府デモに参加し、ここでも逮捕され、2年間服役します。

釈放後、インドシナ大学に進学し、そこで共産活動に参加していた妻(グエン・チー・ミン・ジャン)と出会います。卒業後、妻とともに共産活動を行っていましたが、1939年、フランスにより共産活動が禁止されます。そしてザップや妻、仲間たちはフランス当局に追われる形になります。ザップは中国に亡命ができたものの、妻と従姉妹は、逮捕され、獄死してしまいます。

1940年、ザップは亡命先の中国でついにホー・チ・ミンと出会います。その後は、ホー・チ・ミンに才能を見いだされ、ホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国の軍事司令部で活躍。1946年に、同国の国防大臣に任命されます。

その後勃発した第一次インドシナ戦争では、総指揮官に任命され、各地でゲリラ戦を指揮、1954年ディエンビエンフーの戦いでフランス軍を破り、この戦争に勝利します。その後、第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)でも総司令官として北ベトナム軍を指揮し、南ベトナムとの戦争に勝利します。さらに、その後勃発したカンボジア侵攻、中越戦争でも司令官を努めこれらに勝利しています。

以上がヴォー・グエン・ザップの主な功績です。先程のホー・チ・ミンと比べると、その功績や立場から軍人的な英雄に見られがちですが、父、姉、妻、従姉妹や多数の仲間達が処刑された中で、独立を目指し続けたその生き方こそ、評価されるべきところだと思います。

ヴォー・グエン・ザップのエピソード

ヴォー・グエン・ザップのエピソード

ヴォー・グエン・ザップは軍人として情熱的な性格でありながら、知性的な一面を持っており、人当たりもよく、外交活動や著書の中で様々なエピソードを持つ人物です。そのいくつかをご紹介します。

ザップは、生涯を通して父や妻を獄死させたフランスへの敵対心を消すことができなかったと発言しています。政権樹立直後、外交の場でメスメル首相が第一次インドシナ戦争に参加していた経緯をザップに話し「お互い様ゆえ、憎しみを捨てよう」と笑顔を向けた際、ザップは頷きつつも、怒りに震える手を必死に抑えていたと伝えられています。

また、ドラえもんと関係するユーモラスなエピソードがあります。政権引退後、お孫さんと遊ぶ際に、お孫さんがドラえもんに夢中になり話を聞いてくれないため「アメリカに勝てても、ドラえもんには勝てない」という発言があるとかないとか。このようなエピソードからベトナムや日本のネット界隈でも人気がある人物です。

反戦運動の象徴となったティック・クアン・ドック

ティック・クアン・ドック

画像出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ティック・クアン・ドックは、1963年に南ベトナム政府による仏教徒の弾圧に抗議するため焼身自殺を行ったベトナムの僧侶です。この焼身自殺の写真や映像は、世界中に公開され、南ベトナム政府やそれを主導するアメリカへの批判(反戦運動)が生まれたきっかけの一つになりました。

ティック・クアン・ドックの功績

ティック・クアン・ドックの功績

ティック・クアン・ドックの功績は、世界中で反戦運動が高まるきっかけを作ったことです。本来の目的は、仏教徒の弾圧に対する抗議のために行った行為ですが、この行為が、図らずともその後の反戦運動に大きな影響を与えることになります。

1963年6月11日、ドゥックは、当時、南ベトナム政権が行っていたキリスト教の国教化と仏教徒への弾圧に抗議するため、サイゴン(現ホーチミン市)のカンボジア大使館前でガソリンをかぶって焼身自殺をしました。この衝撃的な抗議活動はカラー映像で世界中に放映され、南ベトナム政府とそれを主導するアメリカに対する国際世論に大きな批判を及ぼすことになります。

さらにこの行為に対して、当時の南ベトナム大統領の妻が「人間バーベキュー」や「反米活動にアメリカ製のガソリンを使うことは矛盾している」と発言したことも相まって、南ベトナム国内や世界中で南ベトナム政府への批判が一層高まることになります。

この行為のあと、南ベトナムでは、政府に対する内乱が活発化します。同国内では、反政府組織である南ベトナム解放戦線(ベトコン)が誕生しテロ活動が頻発します。そしてついに、ティック・クアン・ドックの焼身自殺の5ヶ月後に、仏教徒の弾圧を指揮していた南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領は軍事クーデターにより殺害されます。

しかし、ゴ・ディン・ジエム政権が打倒された後も、アメリカは南ベトナムに対してさらに政治的、軍事的な介入を強めていくことになります。そしてやがて、北ベトナムと南ベトナムのベトナム戦争に発展していきます。

ベトナム戦争の最中、ドゥックの焼身自殺報道のような、戦争に対する批判的な映像や衝撃的な映像が世界に報道される流れが生まれます。これらの報道は、世界中で反戦運動を高め、アメリカの撤退に大きな影響を及ぼしたと言われています。このようなことから、ティック・クアン・ドックの行為はベトナム戦争に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。

ティック・クアン・ドックの死後とその後

ティック・クアン・ドックは死後、ベトナムの仏教徒だけではなく、ベトナム国民の多くから崇拝される存在となりました。仏教徒として、非暴力を貫き、文字通り命を賭して行った抗議活動は、その後の非暴力による反戦運動の象徴となります。

また、ベトナム戦争終結後には、ホーチミン市の中心部に追悼碑「ティック クアン ドック師廟」が作られ、その追悼碑には、祈りを捧げる市民たちにより、毎日多くの花が飾られています。

世界で唯一ノーベル平和賞辞退したレ・ドゥク・ト

レ・ドゥク・ト

画像出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

レ・ドゥク・トは、前述のホー・チ・ミンやヴォー・グエン・ザップともに活躍した、革命家、政治家の一人です。ベトナム戦争の終結を定めるパリ協定(ベトナム和平協定)に北ベトナムとして代表して参加し、1973年1月27日の和平協定の成立に貢献しました。

これらの功績から1973年にノーベル平和賞を受賞することになります。しかし、レは「ベトナムにはまだ平和が訪れていない」と発言しこれを辞退しました。ノーベル平和賞を辞退した人物は現在でもレ・ドゥク・トのみであり、ノーベル文学賞を辞退したジャン=ポール・サルトルに続く二人目の人物になりました。

レ・ドゥク・トの功績

レ・ドゥク・トの功績

画像出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

レ・ドゥク・トは1911年北部ナムディン省に生まれ、1929年にインドシナ共産党に入党しました。この時、フランス当局に1930年から1936年までと、1939年から1944年までの2回、合計11年間投獄されています。レ・ドゥク・トだけではなく、この時代にベトナム本国で活躍した共産活動家は、そのほとんどが投獄または処刑されています。

1945年、ホー・チ・ミン率いるインドシナ共産党中央委員に選出。第一次インドシナ戦争中は、後にホー・チ・ミンに継いで南北ベトナム統一後の初代指導者となるレ・ズアンの副書記を務めます。その後も北ベトナムの政治家として活躍します。

そして1968年、ベトナム戦争の終わりが見え始めたころから、パリ和平協定交渉に代表として参加。1968年から1973年にかけて数回に渡り、アメリカの大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーと秘密会談を重ねました。

5年にも及ぶこの会議は困難を極め、会議を始める前の机の形を決めるだけでも、大きな対立が生まれたというエピーソードがあります。それでもレ・ドゥク・トやヘンリー・キッシンジャーの献身的な歩み寄りにより、1973年1月27日にパリ和平協定が制定されました。

これの制定を受けて、1973年1月29日にアメリカのニクソン大統領がベトナム戦争の終戦を宣言し、3月29日までにアメリカ軍はベトナムからの「名誉ある撤退」を行いました。このようにベトナム戦争の終結に直接貢献したことがレ・ドゥク・ト最大の功績といえるでしょう。

レ・ドゥク・トがノーベル平和賞を辞退した理由

ノーベル平和賞を辞退

この功績が称えらえ、前述の通り、レ・ドゥク・トはノーベル平和賞を授与されましたが、「ベトナムにはまだ平和が訪れていない」と発言し、これを辞退しています。この真意は、ベトナムからアメリカの撤退は決まったものの、最大の目的であるベトナムの南北統一(独立)という目的は、果たせていないということを表しています。

11年間投獄されてもベトナムの独立諦めなかったレ・ドゥク・トだからこそ言える発言なのではないでしょうか。事実、1973年にアメリカの撤退が完了したものの、その後も南ベトナムは体制を維持し続け、1975年のサイゴン陥落まで北ベトナムと南ベトナムの戦争は続きます。

なお、レ・ドゥク・トはベトナム戦争終結後も政治家を続け、1990年に78歳で亡くなるまで顧問を務め続けました。

ベトナム戦争の悲劇を語る少女ダン・トゥイー・チャム

ダン・トゥイー・チャム 

画像出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これまで、ベトナム戦争で活躍した英雄をご紹介して来ましたが、最後にベトナム戦争で北ベトナムの戦場外科医として従軍していた一人の少女、ダン・トゥイー・チャムをご紹介します。チャムは、ベトナム戦争参加中、27歳でアメリカ兵に撃たれ死亡します。その時点でのチャムの死は、ベトナム戦争の中で起こった数え切れないほどの「よくある悲劇」の一つでした。

しかし、ベトナム戦争終結から35年後、アメリカ軍が収集したモノの中から奇跡的にチャムが戦場で書いていた日記が発見されます。この日記には一人の少女がベトナム戦争に参加し、戦場で亡くなるまでの経緯や赤裸々な思いが詳細に記されており、ベトナムで2005年に出版され、ベストセラーになりました。このことからチャムは「ベトナムのアンネフランク」と呼ばれることもあります。

ダン・トゥイー・チャムの功績

ダン・トゥイー・チャムの功績

ダン・トゥイー・チャムは1942年11月26日に医師の家族に生まれました。幼少期から好意を寄せていた男性がベトナム戦争に参加したため、それをサポートするために、1996年に24歳の若さで外科医として、ベトナム中部クアンガイ省の最前線の野戦病院に赴任することになります。

最前線での野戦病院での救護活動は凄惨を極め、ときにチャムは小銃を片手に南ベトナム軍やアメリカと戦闘を行うこともありました。また、アメリカ軍によるナパーム弾の空爆から逃れる様子や、枯れ葉剤散布による体調不良などについても克明に記されています。

さらに日記には、戦場での仲間たちの死に対する思い、共産党員としての自分について、戦場での愛について、家族や故郷への思いなど、一人の少女のありのままの感情が赤裸々に綴られています。そしてその日記の最後は唐突に終わっており、彼女の死が唐突に訪れたことを伝えています。

ダン・トゥイー・チャムはこれまで紹介した偉人と呼ばれる人達とは違い、ベトナム戦争に参加したごく一般的な少女の一人です。だからこそ、現在のベトナムの平和は、チャムような名もなき人々や兵士達の犠牲によって、もたらされているのだと実感することができます。

ベトナム戦争の犠牲者は南北両軍合わせて120万人以上とも言われています。ベトナム戦争を語る上で、このような名もなき人々の悲劇や功績があったことを決して忘れてはなりません。

ダン・トゥイー・チャムの日記のその後

ダン・トゥイー・チャムの日記

画像出典:amazon「トゥイーの日記」

「ダン・トゥイー・チャムの日記」はベストセラーを記録し、現在、ベトナム国民でダン・トゥイー・チャムを知らない人はいません。また、2009年には同国で映画化もされています。また、この日記の原本は所有者の元兵士の捜索活動により、チャムの母親や親族に手渡されています。

また、世界各国で翻訳されており、日本語訳も「トゥイーの日記」というタイトルで発売されています。ぜひ読んでみてください。

まとめ

ベトナム戦争で活躍した偉人

ベトナム戦争で活躍した偉人を5人ご紹介いたしました。偉人たちを調べていると、ベトナム国民の民族統一や独立にかける思いこそが、数々の戦争でベトナムを勝利に導いた要因であるということがよくわかります。

ベトナムの独立運動は80年に及ぶ歴史があるため、今回ご紹介できなかった偉人たちも沢山います。興味を持たれた方はぜひ、ベトナムの歴史を調べて見てください。当ブログでもベトナム戦争に関する歴史やコラムをまとめていますので、関連記事も合わせてご参照いただけますと幸いです。

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